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しあわせの味

撫子さんと志鶴さんの、あるひの会話。この話はサイト未掲載の『好晴の縁側にて』の番外編のような位置づけなのですが、おそらく単品でも読めるかなと思って掲載してみました。時代は大正、時代考証はしていません。

書き出しの「幸せって、どんな味がすると思う?」は、「書き出し.me」より拝借しました。

「幸せって、どんな味がすると思う?」
 ふと、そう尋ねてみた。何処からか、豆腐屋が鳴らすラッパの音が響いている。縁側に二人で座り込み、僕は読書、彼女は縫い物と、それぞれに精を出している最中であった。
 彼女は縫い針を動かす手を止め、此方を見るときょとんとしていたが、すぐに神妙な顔で庭の一点、松の木の枝を見つめながら、考え込んだ。しかし暫く待っても答えが無い。仕方無く僕は再び本を手に取り、読み始める。彼女はこうなると長いのだ。
「ミルクキャラメルのように、甘い味がすると思います」
 二、三ページほど読み進めた頃、彼女は言った。
「どうしてだい?」
 彼女は朗らかな笑みを浮かべている。
「貴方と志信さんと、三人でお手伝いをして、志郎さんとスミレさんに、贈り物をしたことがありましたでしょう」
「ああ、あったね。高い物を買えないからと、駄菓子屋でミルクキャラメルを買った」
「はい。お二人がとても喜んで下さったし、貴方と志信くんと計画を立てて何かをするというのも、とても楽しかったです。私……あの日、この家に来てからようやく、本当に私は家族になれたと思えました」
 懐かしそうに目を細めながら話す彼女。
「一人になってから、矢張り少し、寂しいと思うことはありました。そんなとき、志郎さんに出会って、家族だと言って頂けて、あれほど嬉しいことは無いと思いますけれど、大きな幸福を噛み締めたのは、あのときだったような気がします」
 彼女は話し終えると、針仕事を再開した。今せっせと縫っているのは、僕の着物の袖のようだ。一昨日、出入り口のささくれに引っ掛かり、破れてしまったものである。
「僕は、苦いと思う。卵焼きの焦げみたいに」
 そう言ってみると、彼女は唇を尖らせて此方をちらりと見た。縫い物は止めない。
「何です、失敗した私への、当て付けですか? そこまで味が悪う御座いましたか。そんなものを食べさせてしまって、すみませんでしたね」
 淡々と文句を連ねる彼女にたじたじとなりながらも続ける。
「待て待て、そういうつもりは無いよ。確かに焦げてはいたが、不味くはなかった」
「では、何故そんな」
「上手く言えないのだけれどね。時たま食べる水ようかんやみたらし団子のように、まれに得られる心から感じる幸せ、それは確かに甘く感じられるけれど、普段はそればかりじゃないだろう。君の卵焼きのような失敗や、僕が不注意で破ってしまった袖、遊んでいる最中に割ってしまった植木鉢……というようなものは、日常的にある。でも、君の失敗した卵焼きを食べたとき、僕は幸福を感じたよ。もちろん甘くは無い。苦かったよ。でも、幸せを感じた。君が頑張って作った初めての卵焼きだと思うと。僕の破った袖は、君が縫ってくれる。植木鉢は……そのときは感じないかもしれないけど、将来、そういう出来事を思い返して、幸福を感じるかもしれない。だから……つまり、幸せは甘いばかりじゃなくて、苦くもあるんだよ」
 彼女はまた手を止め、真剣に聞いていたが、終わるとくすくすと笑った。
「何だ。僕の論は一笑に付されるのか」
「いえ、すみません……。ごめんなさい。私も、そう思います。同じです」
 謝罪しながら言うも、彼女はまだ笑っていた。
「まったく。僕は部屋へ戻るよ」
 栞を挟んで本を閉じ、徐に立ち上がる。庭に背を向けたとき、彼女がぼそっと呟いた。
「幸せは甘くて苦い、ですか……。志鶴さん方に出会えたのは、まさにそれのような気がします。父の死や母の失踪が無ければ、このような形で出会うことは無かったかもしれない。それらが、無ければ……」
 途切れる言葉。彼女は今、どのような表情をしているのだろう。
 爽やかな風がそっと、縁側に吹き込んだ。ちりん、と風鈴を揺らす。その音が、やけに耳に付いた。
「そろそろ、夕餉(ゆうげ)ですね。お豆腐屋さん、まだ傍にいるでしょうか」
 布の擦れる音、床を踏む軽い足音。立ち止まったままの僕の右脇から、彼女がひょっこりと顔を出した。
「これ、縫い終えましたので。私は少々、買い物に出ますね」
 それだけを早口で告げると、彼女は足早に台所へ行き、財布と篭を持って来た。
「待って、撫子」
 玄関に向かおうとする彼女を引き留める。彼女は何ですか、と振り返った。
「僕も、一緒に行くよ」
 そう答えて階段を駆け上る。彼女が息を呑むのが聞こえた気がした。自室の長机の上に本を乱雑に置き、彼女が縫ってくれた着物に素早く着替える。
 幸せは、甘くて苦い。理想とは異なり、人生は失敗だらけ、つらいことばかりだ。実際に彼女の人生は簡潔に言い表せないようなものだった。彼女は今も苦しんでいて、それが痛切に感じられるときがある。何とかしてやりたい、そう願うばかりで、しかし非力な僕は彼女の過去に立ち向かうことは出来ないのだった。
 でも、今日は彼女に甘い幸せを捧げたい気分だ。
 今日こそは、出来る気がした。少しでも良い。少しでも、甘い幸福をあげたかった。
 引き出しから自分の財布を取り出し、握り締めながら、部屋を出る。中には僅かな小銭が入っていた。
これが、今の僕に出来ること。あの頃の思い出に浸り、幸せを噛み締める彼女の表情を見たい。そんな彼女を見られるならば、僕もまた彼女と同じように、甘い幸福を感じられることだろう。

(完)(2017年09月05日)

更新履歴
2019/03/03|誤字脱字の修正